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口は至って達者だが文字に書くとなるとからきし駄目という人がある一方、口下手だが作文は極めて得意、口数は少なくとも書かせれば右に出るものがいないといった状況はごく当たり前のようにどこでも見られる。天は二物を与えずで、日本語では話す能力と書く能力とは両立しにくい何か異なる性格を持っているのであろうか。

「日本人の発想、日本語の表現」森田良行著 中公新書 
211p 話し言葉と書き言葉に見る日本語らしさ より抜粋

どうでしょう
インターネット上の日本語ページは、世界で一番多いと聞いた事があります。書くのが下手という時代は終わったのかもしれません。とはいいつつ、読むに値する文章、三島由紀夫は文章読本の中で「文章を楽しむ」という言い方をしていたが、まさに楽しめる文章というものが一体どれだけあるだろうか。

森田良行氏は、私の好きな日本語の研究者の一人だ。彼の研究の厳密さや視点は大いに勉強になる。とくに彼の研究の集大成ともいえる「基礎日本語辞典」は、愛読書にすべき一冊だ。

さて、森田氏の投げかけた疑問に私なりの回答を考察してみたい。

イヌイット語は「雪」に関する単語が非常に発達した言語といわれ、日本語は世界でも「敬語」が非常に発達した言語であるといわれています。文章が苦手というのは日本語の最大の特徴の一つである「敬語」の作用が私たちの足枷となっているのではないか。

その昔庶民は、「お目見え」という格式があり、お目見え以下では将軍の前に出る事すら許されませんでした。また、「お目見え」という地位を授かった人でさえ直接言葉をかわすことは失礼でした。さらにその将軍でさえ、天皇陛下には直接言葉を交わす事ができませんでしたから・・・・

そういう格式が決まっており、それぞれに言葉がありました。

おまえ・・・・最上位の方の 御前にいる人よ
きさま・・・・貴様・・・尊い方よ

と呼びかけた。今は乱暴な言い回しになっているが・・・・左翼の陰謀かも
佳子さまの学習院中退の理由。中国、韓国への学科研修の際、皇族に頭を下げさせようと画策していた教授の意図を見抜いたからといわれているし。

それはさておき
簡単にいうと、日本語は「相手までの距離」が厳密に決められていた。それをどうとるか、私たちのDNAには葛藤があるのです。しかし、「お目見え以下」同士なら長幼の序さえ気を使えば、気軽に話す事ができたわけです。ところが、文章は誰が読むかわかりません。そこで誰に向けて主張したらいいのか、言葉を選べなくなるので、文章が書けなくなるのです。普通の日本人なら当然の事です。もし文章が書けないと嘆くのであれば、あなたは日本人らしい日本人といえるでしょう。

さて、「話す」とは目の前に相手が居ることが前提であり、ラジオなどでも話者は、リスナーが目の前に居る事を前提に話しかけるといいます。一方「書く」というのは読者が不特定多数であるということ。つまり書く場合、読んでくれる人を対象に書くことですが、目の前にはいません。それを目の前に居るがごとくに書く場合、演説形式で聴衆として集まった人に呼びかけるように書くのか、はたまた興味を示さない人に向かって興味を持たせながら主張を織り交ぜるのか・・・・

いずれにせよこの距離を私たち日本語話者は、気にかけているということです。

もう一つ
日本語の視点ですが、蟻の視点と呼ばれています。英語などは神の視点とか・・・だから白人は、傲慢な言い回しばかりしているように聞こえるとおもっているんだが。蟻の視点である日本語の特徴の一つに【略と約め】というのがあります。単語でも「アラカン」といえば昔は、「嵐寛寿郎」だったが、今は60歳前後のことだとか・・・・相手との合意形成の下に会話が進むのですが、知ってるつもりで話が進む。英語話者は、知らない事が前提なので、一つづつ確認します。

日本のサラリーマンにはよくある話ですが、ある会社員が部下らしき若者に「例のアレ、向こうに言って、うまい事やっといてよ、よろしくね」・・・・直訳して白人に言ったらどうなるか・・・というぐあいに略と約めがあるので、これを相手までの最短距離とすると・・・英語的文章が最長距離という事になるだろう。

もう文章を書くときに迷わないでください。この距離を決めてから作文に臨めばいい。

読者のついたブログなどは距離感を動かすと読者が減るかも・・・・

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