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古代道路を探す III
先日、戸越公園付近を歩いていたら、宮前商店街というのを見つけた。

思わず!!! 「おぉ~~~」と叫んでしまった。これは大発見なのです。
これまで、東海道を追いかけ、現在の旧東海道以前の東海道が中原街道だと考えていたのですが、大井駅自体がどこだったのか検証できずにいました。

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https://edwalker01.wordpress.com/2013/10/11/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E9%81%93%E8%B7%AF%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%81%99%E3%80%80ii/

=== 古代道路を探す IIの抜粋 ===

大山街道(国道246号)というのがあるが、これが次に古い東海道であろう。

宮前区の小台のあたりはかなりの高台になっており、「宮前平」付近(国道246号あたりの後ろ)は、入江になっていたようである。この宮前あたりには馬の餌となる稗が群生していたらしい。また馬絹には着物が流れ着いたというところから命名されたそうだ。

さらに時代が下る800年くらい前となると、国道45号の脇が波打ち際だったといわれている。千年という地名の近くの子母口富士見台あたりに「橘樹神社」がありその少し下が波打ち際であったと説明があった。

ここには「日本武尊が船で浦賀水道を渡ろうとしたとき嵐になって弟橘媛(おとたちばなひめ)が海に身を投げて嵐を静めた。」という伝説のこの弟橘媛の着物が波打ち際に流れ着き神社に奉納されたらしい。少し行くと断崖になっていた。

今はかなり山の方であるが、そのうち水没した場合このあたりまで海になるんだろうかと思った。ようするに、今が平常なのか、異常なのか分からないので異常なら平常に戻る。平常ならまた異常な時が来ると思わずにはいられない。

この中原街道(国道45号)は少し後の東海道で、国道15号が現在旧東海道で知られる道ということになる。

という風に海が干上がるに連れ街道は、海側へ、海側へと移されていったことがわかる。

ということで、延喜式に記載のある

浜田駅
店屋駅
小高駅
大井駅
豊島駅

のルートは、国道246号(大山街道)から国道45号(中原街道)へ繋がる道が考えられる。

大井駅は現在の大井町というより、洗足池の近くというのが合理的かもしれない。
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当初私は、馬には飲み水が必要なので、洗足池を念頭において仮説を考えていた。

今回大井町から歩いてみた。戸越公園を通り抜け、ちょうど地図の420号を左側へ向かっていた。何気に右手を見るとそこには「宮前商店街」の看板が・・・・・

やったぁ~~~! 思わずバンザイです!!!

地図をよく見ると、420号が戸越公園と文庫の森、大崎高校、マンションなど民家を囲むように四角に見えるではありませんか。

togoshi

以前から地図上では四角が見えるのと、池もあり、ひょっとして・・・と怪しく感じてはいたのですが、確証がなかったのです。しかし、今回の「宮前商店街」の発見で、この場所に大井の宮があった可能性が非常に高いと確信できました。

そして近くには大井の駅と馬込(駒込)という牧場があったでしょう。こちらもなんとか場所を特定したい。さて、大井の宮確定の続きはいずれ詳しく発掘物などの調査をしてみたい。どこへ行きゃぁいいんだろう。品川区の水道課かな?
ところで、宮というのは・・・「見屋」です。

「火の見やぐら」という語があります。こちらは「やぐら」ですが、建屋なので「見屋」・・・・・「宮」は当て字です。
日本中に「宮」がたくさんあるのは外洋から攻め入る敵を監視するための監視所、前線基地を多く作ったからです。奉っている神様もそれぞれ立派な祖先にあやかったものでしょう。そして設置した地形も高台が多く、一丁事があった場合、住民はここに逃げ込んだり、民兵組織を組み戦うことになっていました。また駅からは馬を出し中央へと伝令(駅伝)を発することになっていました。
延喜式に東山道など街道や駅、馬の数なども詳細に定められていたのもすべて「白村江」の戦いで敗れたためといわれています。東日本大震災の時も宮に逃げて津波の難を免れた方々もいたそうですから、霊験あらたかなんですね。
延喜式は、いわゆる「集団的自衛権」の具体的対策を記述した古文書かもしれない。

安倍さんも支那・朝鮮への具体的対策を示してもいいのでは・・・というか憲法改正したらどうか・・・・もう

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