忠臣蔵を視る前に予備知識

2011/01/04 11:02 IZAのやきなおしです。今年も早いもので、討ち入りの季節です。忠臣蔵を視る前に予備知識としてお読みください。

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初夢や一富士二鷹、三なすび・・・
縁起の良いといわれる初夢は「一富士、ニ鷹、三なすび」などと昔からよく云われるところですが、これはなにも富士山や鷹の絵柄が有難いのではありません。

一は、富士の裾野、曽我兄弟の仇討ち。
二は、鷹の羽のぶっちがい、赤穂浪士の討ち入り。
三に名をなす伊賀上野、荒木又衛門の助太刀・・・

という三大仇討ちという解釈もあります。本懐を遂げためでたさにあやかろうというものでしょう。

2010年末に忠臣蔵「その男、大石内蔵助」を見た。毎年どこかの局で放映されるので、結構見ていると思う。この番組は、日本人を観察する定点観測点だと思っています。
マーケティングの原理も、とっくに論語で解説されています。

論語:為政第二:23
子張問う、十世知るべきや。子曰わく、殷は夏の礼に因る。損益する所、知るべき也。
周は殷の礼に因る。損益する所、知るべき也。其の或いは周に継ぐ者は、百世と雖も知るべき也。

若干解説しますと、孔子に次世代を見通す特殊能力があるに違いないと考えた弟子がその方法を尋ねたのですが、孔子はそれぞれの世代で、減ったものと増えたものを計ることで、百代先までも知ることができると答えた。

ということで、今回の忠臣蔵で興ざめしたのは、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった場面で、大勢に取り押さえられるところ。
ずいぶん早くに興ざめしてしまったものです。

ここは、梶川與惣兵衛が羽交い絞め、関久和が刀を取り上げた。が正解です。
この後が忠臣蔵の真骨頂となって日本人を掘り下げてゆくのですが、ここが今一描けていません。従って、見事に薄っぺらな忠臣蔵、日本人を描くことになってしまった。
それでは、この辺り大昔から講談ではどう扱われているか、見てみることにしましょう。大日本雄弁会講談社版 講談全集より

梶川与惣兵衛は内匠頭取り押さえのお手柄により五百石の御加増、関久和には白銀三十枚。梶川は喜んで御加増を受けたが、関久和は御褒美辞退、その後姿を眩ましてしまいました。
大名旗本衆においては「関久和は感心なもの、武士の魂を備えているようだ。それに引きかえ梶川という奴は・・・」久和に引きかえ、梶川の評判は無闇に悪うございます。
梶川は慣わしで、老中若年寄衆へ御加増の御礼に廻った折、御老中秋元但馬守殿のお屋敷での話。

床の間には「頼朝公富士の御狩」の掛け軸、秋元公、梶川にこの絵解きを迫りますが、梶川一向に要領を得ません。
そ こで秋元公『富士の巻狩りである。あれこれ見るに付け、涙のこぼれる程哀れにも勇ましいは曽我兄弟、その十郎五郎兄弟が工藤の狩屋を尋ね歩き し時、見廻り役、御所の五郎丸、兄弟の姿を見掛け一旦は咎めんと致したが、其の心根を察しこれを見遁した。やがて本懐とげた五郎は父の仇を討ちたる上は、 とても死すべき命、恩義に報いる為この人の縄を受けんと五郎丸に捕われたと聞く。

見遁したる者に 仁あれば、捕われた者には即ち義あり、花も実もある武士とはこれらを云うのであろう。・・武士の情け、お見遁し下さいと血を吐く 思いで頼みしものを、すげなくも組み止め、御加増に相成るような不仁者は予は大嫌いじゃ。重ねて目通り無用。立てッ』。と追っ払われてしまった。

次 に来たのが御老中土屋相模守のお屋敷・・・そこにも「頼朝公富士の御狩」図、梶川、相模守の御出座にならないうち早々に逃げ出し、稲葉丹後守 お屋敷へ・・・床の間を見ると「頼朝公富士の御狩」図、・・・・こりゃいけない、こりゃ大変、行く先行く先この「頼朝公富士の御狩」図です。梶川、早々に 家督を倅に譲るお届を出して、隠居してしまいました。
この梶川与惣兵衛は講談のため厳密には史実に欠ける面もあるとは思いますが、当時この話に溜飲を下げた大名旗本、上流階級から庶民にまでその心には、

① 死を覚悟した人には手を貸すことは無くても応援するのが当たり前。

② 主の無念を晴らした人であればお上もその武勇を称えなくてはならない。
現代であれば勿論梶川は吉良を救った人命救助の表彰状となるのでしょうが、当時の世論では梶川は当然悪者でした。(当時、ご褒美となったのは、殿中での刃傷沙汰の拡大を止めたため)

赤穂義士に対し彼等に仇討ちの素振りが見て取れたとしても、当時の世論は見て見ぬ振りが正しく、また応援する気風すらあった事が窺い知れます。 つまり、赤穂義士が主の本懐を遂げることは当たり前のことで、その意志の見えた赤穂義士たちを十郎五郎に例え、全員が五郎丸になりたかったし、なるべきと 考えていた。

この後、梶川は討ち入り前の義士の一人と槍の勝負を行い、刺し殺されてしまいます。

この赤穂義士たちは、山鹿素行の薫陶を受けたと言われていますが、実際には大石内蔵助良雄が面会したくらいだろうと言われています。

「朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。後年元禄赤穂事件で有名になった赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人である。この事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになる。」ウィキペディアより

討ち入りの際、山鹿流陣太鼓を打ち鳴らしたと言うのはフィクション。どこかに山鹿素行の教えを受け、実現させたということを加えたかったのだと思います。朱子学は当時まだ力があり、にらみを利かせていた。というかあまり好かれていなかったのでしょう。

朱子学は象牙の塔を築くことに汲々としている現代の学者とそっくりですね。

吉 田松陰、乃木希典、東郷平八郎といい、山鹿素行の教えは、偉大な日本人を育ててきた。乃木は「中朝事実」の御前講義をしたともいわれています。いまでも乃 木本として有名で、漢文の返り点など朱が入ったもので、陛下にも献上された。もちろん持っています。(読めません、残念)

儒教の教えは冒頭の孔子の言のとおり良いことが書いてあります。しかし、実践できていないから教えの解釈がどうとかと議論があるのだ。実践し、実現できている国は、日本だけであると素行は言いきった。

彼の著書である「中朝事実」は、戦後、仇討ちを恐れる進駐軍に焚書にあったが、わずかに生き残った古本は少しですが手に入れることができます。

赤穂義士を見るたびに、秩序において平等だった日本の誠実さを感じます。平等と言うのは、同じ義務を果たす者同士に与えられるものである。反日や権利だけを主張する姿に同じ日本人を見ることはできないし、見る必要はない。

無闇に差別するのはいけないが、梶川と久和とはしっかり区別してしかるべきだ。

現在シナが中国と命名するに至ったのは、この本をパクったからである。どこまでいってもパクリしかできない。ま、パクリなら、半島系が本家。聖◯新聞も、「聖教要録」のパクリだという・・・

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